TAKABATAKE STORY
高畑ストーリー(インタビュー)
お話しを聞かせてくれる人
中村 紀矩子(なかむら きくこ)さん
(たかばたけ茶論 店主)
樹々の緑から木漏れ日が差す、1919年に建てられた洋館が佇むオープンテラスから、今日も「お会いできて嬉しいわ」と明るい声が響きます。「たかばたけ茶論」は、1980年11月に風致地区である高畑エリアでオープンしたカフェ(サロン)。2024年で44年目になります。店主(ママ)の中村紀矩子さん(1940年生)は、お隣の志賀直哉旧居に文化人が集った昭和の初めの頃の“高畑サロン”のように、奈良に新しい文化が根付くことを願い、夫の洋画家・中村一雄さんと自宅の庭を開放しました。
あえて大通り側に入り口を設けず、細い路地側の100年以上経つ土塀をくり抜き、門にしたことで、外側からだとカフェには見えません。わざわざ見つけて来てほしいという紀矩子さんのこだわりです。秘密めいた庭のテラスで、気持ちよく本を読みながら、淹れたての珈琲はいかがでしょう?色鮮やかなマスカットスカッシュやアイスティーが新緑に映えます。でも何と言っても、一番の魅力は、ユーモアがあって、笑顔が絶えない紀矩子さんの人柄。出会った人が元気をもらえるような、彼女のチャーミングな人柄に惹かれて、多くのリピーターが今日も小さな扉をくぐって訪れます。長年、お客さんと過ごしてきたエピソードや高畑での日々の暮らしをうかがいました。
自分がやりたくて
やっていることだから
オープンから43年間、一度も病気で休んだことがないのよ。なぜなら、自分がやりたくてやっていることだから。あまり先のことを考えず「明日は明日の風が吹く」と思って、ストレスが無く、楽しくやっています。奈良に嫁いでから、親しくしていたお料理教室の先生の姿が輝いて見えて、私も何かできるかなと思ったの。その思い付きが茶論を始める原点です。最初は、開店を絶対に反対されると思って、主人にも誰にも言いませんでした。
でも、明治生まれの父に伝えたら、「すばらしいなぁ!上手に歳が重ねられるよ」と言ってくれました。ここまで続けてきて、今、父の言葉通りになったと分かったんです。父の言葉はありがたかったし、励みになりました。一生忘れない言葉です。
オープン後もあまりに静かな場所だから、身近な人にも「こんな所でやっても人が来ないよ」と言われて、反対意見がいっぱいでした。でも、後悔をしたくなかったし、父の「人に迷惑をかけなかったら、何をしても良い。好きなことをやろうと思ったら、やったらいい」の言葉に背中を押してもらって、「ダメだったら辞めたらいいわ」と続けました。ここまで続くとは想像もつきませんでした。だから本当に不思議だわ。
今日はどんな人に
お会いできるかな
お客様に恵まれていて、毎日「今日はどんな人にお会いできるかな」とワクワクしています。だから、珈琲も紅茶も初心を忘れないよう、一生懸命気持ちを込めて淹れています。お店に立っている時は、若い時と気持ちがいまだに一緒。お客様がニコッと笑って、「おいしかったよ」と言われると本当に嬉しいの。以前、60代くらいの男性がガーデンから私の姿を見ていたみたいで、お帰りの際に「お年はおいくつですか?」と聞かれました。84歳と答えたら、「すごく機敏に動いておられる姿に見とれていたんです」と言われたんです。外からもお客様に見られているんだと、それもひとつの勉強になりました。お客様から直接いただいた言葉がすごくエネルギーになります。
あと、一番印象に残っているお客様がいます。ご夫婦揃って奈良好きで、この茶論にも来てくれていました。ある日、奥様が1人で訪ねて来られ、「亡くなった主人がこのお店が大好きで、ママさんとお話しするのも大好きだったんです。今、主人の好きだった場所を周っているんです」とポロポロと泣きながらおっしゃったの。わざわざ報告しに来てくださったのもありがたかったし、お店をやっていると、本当に色々な感動があります。40年振りにいらっしゃるお客様もいるんですよ。もうお店を閉めているだろうと思って、とりあえず来てみたら、開いていて驚かれ、中を覗いたらママ(私)がいるから、もう本当にビックリしたそうなの。3代で来てくれるお客様もいて、その時も感動がありますね。43年間お店をやっていて、人の温かさを生で感じるので、「人って素晴らしいなぁ」と、ひしひしと感じますね。その気持ちがあって、色々な人に出会えるので、私も元気が出ます。
家族と一緒に
「嬉しい」「楽しい」
娘とお嫁さん3人のファミリーでお店をやっています。お嫁さんが「ママは、ほんのちょっとしたことでも嬉しい、わぁ~!楽しいって言うね」と言うんです。日々のことが新鮮で、「ママ、来たよ~」と手を振って入って来るお客様がいたり、「すごく癒されました」と言ってくださったり、「一緒に写真を撮ってください」と言われたり、なんだか楽しいわ。お客様の反応が嬉しいし、力になりますから、笑うことが多いわね。やっぱり、嬉しい、楽しいってよく言っているわね!店内には、亡くなった主人の絵も飾っています。主人は、外国が好きだったので、家に居ないことが多かったから「ママ、寂しくないの?」なんて聞かれたけれど、私は外国を描いた主人の絵が一番好きなので、何も寂しくなかったです。主人も当たって砕けろのおもしろい性格で、土臭いところが好きだから、メキシコが似合うの。洋館のアトリエには100号のメキシコの絵が飾ってあります。このガーデンで、30枚くらいイーゼルを並べて展覧会も何回かやりましたよ。それにお隣の志賀直哉旧居の保存活動もしていましたね。
主人は絵描きだったのに、私は絵を描くのが嫌いで、筆も持ったこともがないの。でも、お店の看板を作る時、「ママが描いて」と言われてね、無心で一気にワッと描いたんです。そうしたら、何だか褒められて、味があるって言われるんですよ。
いろいろな事がありましたけど、結果とかは一生分からないわね。だから、夢を持てることは幸せなのよ、やりたいことがあるって幸せ。ちょっとしたことで、嬉しいと思えるのだから幸せよね。きっと私は単純なのよ。
私にとっての高畑
何十年住んでいても、洋館があるこの一角は本当にどこを見てもすべて良いの。100年以上前の独特の赤い瓦とうちの古い土塀とね、この庭の緑がセットになって、何もかもが古いから、瓦も土塀も換えるに換えられないし、他所には無い風合いなのよ。意外とあまり無い風景だと思います。ちょっと遠出して帰って来て、この風景を眺めると、あぁやっぱりいいねぇ、とホッとしますね。
お話しを聞かせてくれる人
中田 定観(なかた じょうかん)さん
(新薬師寺 住職)
新薬師寺は、747年に光明皇后が夫である聖武天皇の病気平癒を祈願し、創建した高畑エリアを代表する古刹です。創建当初は、七堂伽藍を配する大寺院でした。ご本尊は、カヤ材の一木造りで、大きく見開かれた瞳が印象的な国宝・薬師如来坐像(奈良時代~平安時代初期)。そして、ご本尊をぐるりと囲んで守護する圧巻の国宝・十二神将立像(12体)(奈良時代※波夷羅大将は補作)で知られています。
新薬師寺の中田定観住職(1944年生)は、同寺からほど近い隔夜寺※1で生まれ、幼少期より、文化人でもある新薬師寺の先々代住職・福岡隆聖師※2のもとで手伝いをしながら、学び育ちました。新薬師寺には、かつて、前身とされる香山寺のご本尊だったとされる旧国宝・香薬師像(伝・光明皇后の念持仏)が安置されており、隆聖師も篤く信仰していました。しかし、明治の2度の盗難で手足が切り離され、昭和の3度目の盗難でとうとう行方知れずに。現在は、香薬師堂に複製の像が安置されていますが、定観住職は、ルポライターの貴田正子さんご夫婦とともに今も香薬師像を探しています。2005年には、奇跡的に香薬師像の「右手」が発見され、同寺に戻り(現在は奈良国立博物館に寄託)、話題を集めました。長年、高畑エリアの歴史を見つめ続け、自身でも今の高畑を記録に残して、次世代へ伝えようと努める定観住職にこの地の思い出と魅力を伺いました。
※1隔夜寺(かくやじ)
新薬師寺からほど近い、称名念仏の祖・空也上人と縁がある寺院。通常非公開。ご本尊は、奈良県桜井市にある長谷寺の十一面観音立像を縮小したものと伝わるほど、長谷寺とも縁深いお寺です。
※2福岡隆聖(ふくおかりゅうしょう)(1902~1981年)
新薬師寺の僧侶で、東大寺修二会(お水取り)の練行衆であり、画家として修二会の画集を出版しています。観音院サロンで多くの文化人と交流した知識人。
思い出と心惹かれる高畑の風景
(戦後直後~昭和中頃)
私は、清水町や破石(わりいし)町を通って、地元の飛鳥小学校・中学校に通っていました。破石町から新薬師寺までの道(柳生街道の一部)は、新しい家もあまり建っておらず、今も本当に昔のままです。現在の奈良教育大学の場所ですが、戦時中は、陸軍歩兵第38 連隊が駐屯し、戦後は、米軍に接収され駐屯地になりました。生まれ育った隔夜寺の前を進駐軍が春日奥山へ演習に行くため通るのですが、幼い私が訳も分からずじっと見ていると、米兵が飴やガムを投げて寄越してきた記憶があります。当時はギブミーチョコレートの時代ですから。他にも1952年頃、若草山山頂へ夜間の納涼バスが走っており、隔夜寺の前を通るので、それに乗ってみんな山頂でビールやお茶を飲んでいましたね。
心惹かれるのは、新薬師寺の駐車場から見える春日大社のご神体の御蓋山(みかさやま)です。目の前にあるのですから、そういうのも感激しますね。高畑は社家町なので、本堂の東側はかつて春日大社影向(ようごう)の間でしたし、香薬師堂の夜泣き地蔵※3も縁があり、春日大社と繋がりがありました。今の風景からは想像できませんが、1988年頃まで、東大寺東側の春日野園地には、市営の春日野プールやちょっとした動物園があったのです。私も子どもの頃、近道で春日大社の杜を通り、プールに行ったり、泳いだ帰りに屋台の冷やし飴を飲んだりした思い出があります。
※3夜泣き地蔵
春日大社で夜な夜な子供の泣き声がしたため、春日の神人(じにん)がその声の先である御本殿へ行くと、春日様は地蔵様の姿をしており、「新薬師寺へ行きたい」と言われました。そして、新薬師寺に移され、毎年、春日大社から五升の米が寺に届けられたという伝承が残っています。※神人とは中世の神社に所属した奉仕者身分
文化人でもあった
先々代住職・福岡隆聖師
30代で新薬師寺に入ったのですが、先々代の福岡隆聖師と先代で父の聖観とここで暮らしました。隆聖師は、奈良を愛した文化人のひとりで歌人でもある会津八一さん※4の親友でした。八一さんは、新薬師寺で13首も歌をつくっており、香薬師さんを詠った境内の歌碑が第一号です。隆聖師自身も文化人でした。美術に造詣が深く、明治期の国宝指定で登録された十二神将の名称が間違っていることに気付いて、『儀軌 (ぎき)※5』を学び、十二神将の名前と並び方を現在の形に直しました。そのため、有名な伐折羅(バザラ)大将が今も国宝指定名の場合では、迷企羅(メイキラ)大将になっているのです。さらに、十二神将のなかで唯一の補作である波夷羅(ハイラ)大将のデザインもしています。東大寺の僧侶で別当も務めた上司海雲師※6の「観音院サロン」にも会津八一さんや写真家の入江泰𠮷さん※7らとともに出入りしていました。私は、文化人の皆様と直接的な面識はありませんでしたが、隆聖師にあちこち連れて行ってもらいまして、色々な著名人にお会いしましたね。香薬師さんの複製を制作した彫刻家の水島弘一さんにもお会いしました。
※4会津八一(1881~1956年)
奈良の自然と美術を酷愛し、書家、歌人、美術史研究など、幅広い活動で知られています。早稲田大学名誉教授。雅号は、秋艸道人(しゆうそうどうじん)です。
※5儀軌
経典に解かれた仏などの造像や供養などの規則を定めた書。
※6上司海雲(1906~1975年)
文学・芸術を愛し、書画でも評価を受けている東大寺観音院の住職(後の第206世東大寺別当)。奈良に移住した志賀直哉と親しく交流しました。志賀の東京転居後は、観音院にいつしかサロンが形成され、「観音院サロン」とよばれるようになりました。観音院サロンには、画家の杉本健吉、歌人で文人の会津八一、写真家の入江泰𠮷、洋画家の須田剋太などが出入りしたことで知られています。
※7入江泰𠮷(1905~1992年)
半世紀以上にわたり、奈良の仏像・風景・伝統行事・万葉の花等を独自の感性で撮り続けた写真家。入江作品で「美しき奈良大和路」のイメージが定着したといわれています。
映画『好人好日』に映る、
在りし日の高畑
1961年公開の『好人好日(こうじんこうじつ)』という映画がありましてね、奈良女子大学に勤めていた世界的な数学者の岡潔(おかきよし)さんをモデルにした映画なのです。主人公の尾関(笠智衆)の養女役に新人だった岩下志麻さんが出演しています。それを観ると、高畑などこの辺りの当時の景色が出てくるのです。私は思い付いて、高畑が出てくる映画のワンシーンをキャプチャ写真にして、同じ場所へ行き、今の風景を撮って並べるのです。例えば、新薬師寺から白毫寺へ行くところに小高い坂があって、昔、三角喫茶店だった建物の向かいに元々靴屋さんがありました。今も赤い雨除けがバタバタしているのですが、薄っすら靴屋の文字が残っています。写真を撮っておくと、風景の変遷が分かって、記録になりますね。
変遷と言えば、戦後すぐの頃までは、新薬師寺では、本堂中央の円壇まで上がって拝観ができました。十二神将を本当に間近で拝観できたのですよ。もちろん今は、上がれませんので、お薬師様や十二神将、それぞれ必ず目が合う場所がありますから、探してみて、そこからぜひ、お参りしてください。
新薬師寺に伝わる
民間信仰や伝承
私が小さい頃、境内の池に片目の鯉がいました。ご本尊が眼病平癒のお薬師様なので、参拝者の願いを受け取って片目になったと言われていました。他にも、本堂真ん中扉の左端に錐(きり)がぶら下がっていますが、身体の悪いところを突くと治るという言い伝えがあります。他にも身体の悪いところに紙を貼ったら治ると伝わる紙貼り地蔵さんとかね。一時、大名茶人の織田有楽斎※8が住んでいたという言い伝えもあって、境内に有楽斎が眺めたとされる「織田有楽斎の庭」があります。色々あちこち旅行に行っても、やっぱりうちの庭が一番えぇなぁと思いますね。
※8織田有楽斎(おだうらくさい)
織田有楽斎(織田長益)は、織田信長の末弟で、豊臣秀吉や徳川家康にも仕えた大名茶人として知られます。
私にとっての高畑
奈良町から破石へ、そこから道を上がって行って、新薬師寺の方へ角を曲がったら景色がガラッと変わります。本当に昔から変わっていない風景です。私のふるさとですね。車で新薬師寺に来られるよりも、市内循環バスに乗り、破石町(新薬師寺道口)で降りて、信号がある大きな交差点の新道ではなく、一本南側の旧道を上がっていただくと、そのあたりに高畑の風情が残っているので、それを感じながら歩いてほしいですね。