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奈良の世界遺産

興福寺





 猿沢池にうつる興福寺の五重塔は、奈良を代表する風景になっています。その興福寺は、藤原鎌足の死後の幸福のために建てられた山階寺が、飛鳥に移されて厩坂寺となり、平城遷都で移建されたと伝えられていますが、実は鎌足の子不比等の発願で氏寺として創建されたものです。中金堂ができて間もなく、官寺なみの扱いを受けることになりました。その後721年(養老5)に北円堂、726年(神亀3)に東金堂と五重塔、734年(天平6)に西金堂が建てられて伽藍がおおかた整いました。そして、平安時代の初め813年(弘仁4)には、藤原冬嗣が南円堂を建てます。
 藤原氏の力が大きくなるにつれて興福寺も勢いを伸ばしました。伽藍の外に一乗院・大乗院などの子院がつくられていきました。興福寺は氏社である春日社一体だと主張して春日社の実権をにぎり、1135年(保延元)には若宮社をおこして翌年から若宮祭(おん祭)を始めます。興福寺は東大寺と多武峯を除く大和の寺社をその末寺や末社にするとともに、大和の土着の武士たちに僧の身分を与えて僧兵の主力にし、大和を治めるようになりました。
 1180年(治承4)の平氏の焼討ちで、堂塔はことごとく焼けました。ただちに復興事業にかかり、14年ばかりの間に堂塔が再建され、1210年(承元4)には北円堂も落成しました。1143年(康治2)に創建された三重塔も、鎌倉時代前期に再建されたものとみられます。1411年(応永18)東金堂と五重塔が雷火のために焼失しましたが、東金堂は15年(応永22)に、五重塔は26年(応永33)に再建されました。このころからしだいに寺勢が衰えましたが、江戸時代には幕府の保護もあって少し持ち直しました。1717年(享保2)、金堂から出火して、東金堂・五重塔・北円堂・三重塔を残して大半の堂舎が焼けてしまいました。西国三十三所札所だったので、南円堂だけはほぼ元どおりに再建されました。明治維新の神仏分離で、興福寺はいちじ空家同然になりました。1872年(明治5)、中心の堂塔を残して他の諸院の堂舎や土塀がとりこわされ、五重塔が売りに出されたりしました。81年(明治14)に再興の許可がおり、寺としての形もしだいに整っていきました。1998年(平成10)から、壮大な伽藍の復原整理事業がすすめられています。

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