聖武天皇は、災害や政変、反乱などが相次ぐ当時の社会不安を、仏法の力によって解消しようと(鎮護国家思想)、全国に国分寺の創建を推進する一方、大仏造立を発願。 東大寺の本尊として世界最大の金銅仏、盧舎那仏(るしゃなぶつ)の造営が始まり、天平勝宝4年(752年)に開眼法会が盛大に行われました。
◇ 盧舎那(ルシャナ)・毘盧遮那(ビルシャナ)=いずれもサンスクリット語のヴァイローチャナの音訳で、光明があまねく照らすという意味の「光明遍照」と漢訳される、華厳経の教主です。平安時代の密教で宇宙の根本仏とされる大日如来は、ビルシャナ仏から展開した仏です。
◇ 大仏さまと大仏殿の造立には当時人口の約半分、のべ260万人もの人々が協力しました。
座高 | 1,498cm |
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顔の長さ | 413cm |
顔の幅 | 320cm |
目の長さ | 102cm |
鼻の幅 | 98cm |
鼻の高さ | 50cm |
口の長さ | 133cm |
耳の長さ | 254cm |
手のひらの長さ | 148cm |
中指の長さ | 108cm |
足長(左足) |
374cm |
ひざの厚さ | 223cm |
銅座の高さ | 304cm |
石座の高さ | 252cm〜258cm |
仏教伝来後、聖徳太子などが仏教を広めました。その後、藤原京から平城京に都が移ってからまもなく、政変や皇族同士の争い、疫病(えきびょう)、自然災害が多発しました。 天平十三年(741)に聖武天皇は国分寺創建の詔(みことのり)を発し、国ごとに仏像を造り、七重の塔を建て、仏法の力によって国を救おうと考えました。
◇ 国分寺創建の詔=国ごと(当時62の国にわけられていた)に鎮護国家のためのお寺を建てる、国分寺と共に国分尼寺も創建
天平勝宝4年(752年)、大仏さまの目に筆で瞳を描いて魂を迎え入れる儀式-「大仏開眼供養会」-が行われました。 開眼の導師を勤めたのはインドの僧侶、波羅門僧正・菩提僊那(ぼだいせんな)です。 また、中国や朝鮮をはじめ諸外国の珍しい音楽や舞踊などが披露され、当時の東アジアの中では最大級の国際イベントとなりました。東大寺は鎮護国家の役目とともに、仏教の教理を広く研究することが求められていました。華厳、法相、三論などの6宗(南都六宗)を研究する組織が整えられ、六宗兼学の寺として、今で言うところの国立総合大学の機能を持っていました。 その中で最も重んじられたのが華厳宗で、本尊として華厳の盧舎那仏がまつられました。 しかし、斉衡2年(855年)に大地震により仏頭が落下。また、源氏と平氏の戦いのなか、治承4年(1180年)には平重衡の南都焼き討ちにより、大仏殿などが焼失しました。まもなく大仏は修復、大仏殿も再建されましたが、戦国時代の永録10年(1567年)、再び戦火により大仏殿は焼失、大仏も被災してしまいます。雨ざらしとなっていた大仏は修理され、元禄5年(1692年)に開眼供養会が、続いて宝永6年(1709年)には、大仏殿の落成を祝う「落慶供養」が行われました。 その後、明治元年(1868年)に出された神仏分離令(神道を国の宗教とし、仏教と分離する政策)により、南都の諸寺がいずれも衰えたため、大仏殿も世間から顧みられない状況となりますが、困難をおして解体修理が行われました。さらに「昭和の大修理」を経て現在に至っています。
今日の大仏さまは、奈良、鎌倉、室町、江戸の各時代の合作とも言えます。世界が平和で全てのものが栄えることを願って造立された大仏さまは、多くの人々の手で護り伝えられているのです。