奈良の穴場!?「ならまち」の南玄関「京終エリア」歴史スポット巡り!
元興寺文化財研究所の研究員さんに案内してもらいました
奈良県を代表する難読地名の一つ「京終」(きょうばて)。奈良市「ならまち」の南に位置するエリアです。ここは、平城京の南端に由来するノスタルジックなまち。復元されたレトロな駅舎や古い町並みが残り、のんびり歩くのに最適です。この記事ではナビゲーターの案内で「京終」エリアの歴史散策の楽しみ方を紹介します。
INDEX
- 京終エリアを案内するのは…
元興寺文化財研究所研究員の服部光真さん - ユニークな端っこにある都市と農村の境界地!
「奈良町の南玄関」京終エリアってどんなところ? - 服部さん教えて①
「京終地蔵院」都市と農村の境界におわす石造の阿弥陀様 - 服部さん教えて②
「飛鳥神社」都市と農村が交差する境界を護る京終エリアの信仰の中心地 - 服部さん教えて③
「璉珹寺」古代の紀氏の氏寺‟紀寺”の法灯を今に受け継ぐ
- 服部さん教えて④
「崇道天皇社」地域の人々に愛される境界を護る御霊 - 服部さん教えて⑤
「福寺跡」南玄関という性格を体現した‟幻の寺院“のミステリー - 服部さん、教えて⑥
「椚神社」地域のアイデンティティの神木に注目、中世の奈良町の南惣門はおそらくここに - 何気なく歩いている道にも深い歴史が…
上ツ道 京終の特色を形作ってきた古代からの幹線道路を歩こう - ロウノ坂
- 鹿垣跡
- 服部さん ありがとうございました!
- この記事で紹介している神社仏閣やスポットの地図
- その他のエリアとモデルコース
- この記事で紹介したスポット
京終エリアを案内するのは…
元興寺文化財研究所研究員の服部光真さん
京終をナビゲートしてくれるのは、京終エリアの歴史に詳しい元興寺文化財研究所の研究員である服部光真(はっとり みつまさ)さん。同研究所は、京終町の皆さんと協力して、『奈良町の南玄関』(京阪奈情報教育出版)という本を制作しており、服部さんもメイン執筆者のひとりです。今回は、この本をベースに端っこの境界地ならではのユニークな歴史のまち「京終」を半日かけて解説してもらいました。さらに、今回はゲストとして、歴史大好きな第7代NARA CITY コンシェルジュの椿莉名(つばき りな)さんも登場。一緒に京終のまちを楽しんでもらいました。
ユニークな端っこにある都市と農村の境界地!
「奈良町の南玄関」京終エリアってどんなところ?
奈良市「ならまち」の南に位置する京終。ここは、古代から、平城京(都城)である都市部と水田地帯である農村部とにまたがる境界の地でした。
そのため、奈良のまちの中でも、都市と農村の両方の性格を併せ持ち、各時代において、都市の玄関口として発展してきた「奈良町の南玄関」と言えるユニークな場所です。古代から中世、近世、近代へと連綿と重なり合うように紡がれてきたいくつもの歴史ピースが残っており、まち歩きでそれを実感しながら、各時代を楽しむことができるエリアです。
服部さん教えて①
「京終地蔵院」都市と農村の境界におわす石造の阿弥陀様
- 服部さん
- 京終地蔵院は、村持ちのお堂です。詳しい由来についてはあまり分かっておらず、昔から「地蔵院」と呼んでいたかどうかも定かではないのですが、江戸時代にここにお堂があったことは間違いありません。奈良町にある徳融寺(鳴川町)所蔵の「当麻曼荼羅(たいままんだら)」などに現在の京終地蔵院を指すと考えられる「京終住僧」という記載がありまして、そこから浄土宗系の僧侶がここに住んでいたようだと考えられます。

- 服部さん
- 安置されている石仏は、真ん中が阿弥陀如来、向かって右が観世音菩薩、左が勢至菩薩という三尊形式になっていますね。巨大な舟形光背(ふながたこうはい)のなかには、頭から放たれる光を、花弁が一枚の単弁蓮華文(たんべんれんげもん)という円形頭光(ずこう)の彫りで表しています。石造で幅が薄いのですが、耳の裏までしっかりと彫ってあるんですよ。南北朝時代くらいの良くできた阿弥陀様ですね。

- 服部さん
- この阿弥陀三尊像(石仏)ですが、かつては京終池(阿弥陀池※)の南西にあった辻堂のご本尊だったと言われています。その元あった場所は、地元の人々が通称「中街道」と呼んでいた道の玄関口に該当します。すぐ近くに都市と農村の境界に設けられた鹿柵(鹿垣)があったことからも、この石造の三尊像は、その境界を象徴する存在だったのでしょうね。
※現在の京終地蔵院の南東にあり、跡地が駐車場になっています 
- |京終地蔵院|
住所 - 奈良市北京終町6
- 拝観
- 終日(境内自由参拝)
- ※住宅街にありますので、近隣住民の方に配慮して参拝してください
【もっと楽しむための歴史知識】
京終の通称「中街道」とは?
本来の中街道は、日本書紀に登場する古代官道で、藤原京から平城京の朱雀大路へつながる上ツ道、中ツ道、下ツ道と称された奈良盆地を南北に縦貫する3つの幹線道路のうち、下ツ道のことを指します。中世以降、下ツ道が商業や交通の要の一つとして「中街道」と呼ばれました。しかし、京終エリアの地元の人々は、江戸時代頃から、この中街道(旧下ツ道)より、さらに東にある奈良町へ通じる道を通称で「中街道」と呼んでいました。
服部さん教えて②
「飛鳥神社」都市と農村が交差する境界を護る京終エリアの信仰の中心地
- 服部さん
- 飛鳥神社は、都市を区画した条坊制(じょうぼうせい)の道である平城京五条大路と水田(農村)を区画した条里制(じょうりせい)の道が交差する境界に建つ神社です。古くから、京終エリアの信仰の中心を担ってきた存在で、江戸時代には当時の「京終村」の氏神であったことが確認できます。

- 服部さん
- 中世の京終エリア周辺では、天神信仰と春日信仰が盛んでした。室町時代に春日大社の「奈良中末社」の一つである「五条天神」と呼ばれる神社があったようで、現在の飛鳥神社のルーツである可能性があります。御霊である天神(菅原道真)がこの地にまつられたのも、境界に建つ、奈良町の南部の守り神という性格があったからかもしれません。
江戸時代には、京終町の人々が集まる会所だった大堂も隣り合っていました。町の信仰の中心地であり、寄り合いの場所でもあったようですね。 
- 服部さん
- 大正時代までは、近くの御霊神社(ごりょうじんじゃ)の宮司さんが兼務してその氏子圏に含まれていましたが、京終駅の開業後に周辺の人口が5倍近くに増えた結果、京終の氏神として再興され、自立しました。現在は氷室神社が兼務していますが、当時は専任の宮司さんもいました。

- 服部さん
- 天神様にちなんで江戸時代には「天神社」、明治時代以降は「紅梅殿社」と名前を変えてきましたが、戦後に正式に「飛鳥神社」に改められました。御霊神社からの独立に際して、近くの元興寺が平城遷都で明日香村の飛鳥寺から移されて創建された際に、同じく明日香村の飛鳥神社から分霊したという由来が語られるようになったためです。
なので、現在の正式名称は「飛鳥神社」ですが、近年まで地元の方々の間では昔ながらの「京終天神社」の通称で親しまれてきました。現在も、秋祭りや花切り祭(当夜座講)などが行われており、戦後に住宅開発で人口が大幅に増加した京終地域の信仰の中心的な役割を担っている存在なんですよ。今も昔も都市の境界を守る天神様です。 
|飛鳥神社|
- 奈良市北京終町45
- 拝観
- 終日(境内自由参拝)
服部さん教えて③
「璉珹寺」古代の紀氏の氏寺‟紀寺”の法灯を今に受け継ぐ
- 服部さん
- 璉珹寺(れんじょうじ)は、古代豪族である紀氏の氏寺であった「紀寺(きでら)」を受け継ぐ寺院です。紀寺の名がこの地域の地名(紀寺町)の由来でもあることから分かるように、歴史的にもこの地域の中心的な寺院だったんです。古代のこの地域(平城京左京の張り出し部分の南端部)は、古代豪族が紀寺(紀氏)、葛木寺(葛城氏)、佐伯院(佐伯氏)といった小規模な氏寺を建立し、それが集まっているエリアでした。紀寺の後身と伝わるこの璉珹寺の境内からは、奈良時代後期から平安時代初期の古代瓦が出土しています。

- 服部さん
- 古代から紀寺の名は、通称に近いというか、「蓮成寺(璉珹寺)」の別名でした。注目してほしいのは、同じく古代豪族の氏寺であった葛木寺、佐伯院が平城京から平安京へ遷都後、廃絶してしまったにもかかわらず、紀寺はその後も存続し続けた点ですね。
その理由は、奈良朝最後の天皇である光仁天皇(こうにんてんのう)の母が紀橡姫(きのとちひめ)という紀氏出身だったので、桓武天皇の時代に紀氏が厚遇され、その氏寺である紀寺も領地(封戸)が与えられ、隆盛したからなんです。多くの古代豪族が衰退し、その氏寺も廃絶していったなか、経済的な基盤があったことが紀寺の存続に繋がりました。 
- 服部さん
- 創建や再興には、色々な伝承が残っていて、16世紀前後に成立した最も古い縁起では、東大寺の大仏や大仏殿造立に尽力した奈良時代の名僧・行基が開基し、紀有常(きのありつね※在原業平の義父)が再興したと伝わっています(※紀貫之創建説、役行者創建説など諸説あります)。そのため、鎌倉時代の行基菩薩坐像と紀有常尊像が残っているんですよ。

- 服部さん
- 現在の璉珹寺のご本尊は、毎年5月に特別開扉される鎌倉時代の秘仏・白色阿弥陀如来立像(県指定文化財)ですが、紀氏が厚遇され活躍した、奈良時代末から平安時代初期の観世音菩薩立像(重要文化財)もまつられており、寺領を与えられた頃の紀氏の勢いが伝わってくるかのようですね。
ご本尊の秘仏・白色阿弥陀如来立像は、「女人裸形阿弥陀如来立像」とも呼ばれ、木造で色白の美しい裸形像で、下半身に布製の袴を身に付けています。寺伝では、光明皇后をモデルとして製作されたといわれ、女身の裸形をあらわしています。 
- 服部さん
- このような像を「裸形着装像(らぎょうちゃくそうぞう)」と言うのですが、平安時代後期から鎌倉時代初期に流行しました。これは、生身仏(しょうじんぶつ)即ち、今まさにこの世に具体的な姿として現れた仏が衆生を救うことを意味する「生身仏信仰(しょうじんぶつしんこう)」が背景にあり、鎌倉時代の仏像の特徴であるリアルな写実性にも繋がっています。

【もっと楽しむための歴史知識】
裸形着装像(らぎょうちゃくそうぞう)
主に阿弥陀如来像や弘法大師像、地蔵菩薩像などの仏像が多く、全身をあえて裸の状態で制作し、その上から実際に布製の衣服を着せてまつる形式のこと。
- 服部さん
- 現在は浄土真宗遣迎院派(じょうどしんしゅうけんごういんは)に属しています。「浄土真宗」ですが、一般的な真宗十派(本願寺派や大谷派など)とは異なる天台宗系の一派で、珍しい宗派です。遡ると、中世からは現在の「女人裸形阿弥陀如来立像」を御本尊として阿弥陀信仰が盛んでした。江戸時代以降は浄土宗(西山流)、天台宗などと本山を転々と変えてきましたが、お寺の信仰の中心は阿弥陀信仰・お念仏の信仰で、現在も変わりません。
ニオイバンマツリやオオヤマレンゲをはじめとする、四季折々の花が出迎えてくれる花の寺としても知られています。 
|璉珹寺|
【特別拝観期間(毎年5月)】
9:00~17:00(最終受付16:30)
※毎年5月に秘仏「裸形白色阿弥陀如来像」特別公開(要拝観料)
服部さん教えて④
「崇道天皇社」地域の人々に愛される境界を護る御霊
- 服部さん
- かつて璉珹寺の鎮守社だったと言われている崇道天皇社(すどうてんのうしゃ)は、光仁天皇の皇子で、桓武天皇の皇太弟だった早良親王(さわらしんのう/崇道天皇)を御祭神としてまつる神社です。
早良親王は、長岡京への遷都計画責任者として、桓武天皇の信任を受けた藤原種継(ふじわらのたねつぐ)暗殺の疑いをかけられました。無罪を訴え続けながら、淡路島への流罪の途中で非業の死を遂げています。その死後、桓武天皇の身内の病死や疫病の流行、洪水などが相次いだことから、早良親王を崇道天皇と追諡(ついし)し、怨霊鎮魂のため、桓武天皇の崩御後、806(大同元)年に平城天皇(へいぜいてんのう)が創建しました。 
- 服部さん
- 紀寺を守る氏神様として、昔から地域の人々に愛され信仰されてきた神社で、奈良町の御霊神社(薬師堂町)と共に「南都二大御霊社」として知られています。怨霊の魂を鎮めて神としてまつる御霊の神社がなぜ京終を含む奈良町(ならまち)界隈にこんなにもあるのか、不思議に思いますよね。中世の奈良の領主でもあった春日大社や興福寺は、藤原氏の氏神社と氏寺ですから、藤原氏が関わる御霊をまつることは、この町にとって大事なことだったのでしょうね。

- 服部さん
- 見どころの御本殿は、国の重要文化財に指定されています。一間社春日造、檜皮葺であり、1623(元和9)年に春日若宮社を移建した「春日移し」と呼ばれるものです。全国の若宮社の「春日移し」の中でも最古とされており大変貴重です。先ほどの飛鳥神社とともにこの崇道天皇社もまた、境界の地に建つ、境界を守る御霊なんですよ。

【もっと楽しむための歴史知識】
一間社春日造
春日大社の本殿と同じ建築様式(春日造)のうち、建物正面の柱が2本(柱と柱の間が1つ)の造りのものを「一間社春日造(いっけんしゃかすがづくり)」と言います。
- |崇道天皇社|
- 住所
- 奈良市西紀寺町40
- 電話
- 0742-23-3416
- 拝観
- 7:00~16:30(社務所受付:9:00~16:30)
- 休日
- 月曜日(祝日の場合は翌火曜)
※閉門日の詳細は崇道天皇社公式ウェブサイトをご確認ください
服部さん教えて⑤
「福寺跡」南玄関という性格を体現した‟幻の寺院“のミステリー
- 服部さん
- 京終界隈には、古代から中世にかけて「福寺(ふくでら)」と呼ばれる寺院がありました。
江戸時代には、既に廃寺になっており、そこにあった大きな池は「福寺池」と呼ばれていました。農業用の溜池として利用されていた「福寺池」ですが、1970(昭和45)年に埋め立てられ、住宅地として開発されています。 
- 服部さん
- 戦国時代に飢餓をきっかけにした土一揆(つちいっき)があり、福寺のお堂は、焼失してしまったようです。江戸時代には、廃絶してしまい、それ以降の記録がほとんど残っていないミステリアスな福寺ですが、現代でも、近年まで小字「福寺」として地名が残っていたほど、濃厚な存在感を残しています。

中世の福寺は、正式名を「興福寺福田院(こうふくじふくでんいん)」といい、元々は、興福寺境内にあったようですが、平安時代末(1180〈治承4〉年)、平重衡の南都焼き討ちで焼失した後に、京終エリアに移されて再興したと考えられています。
最盛期は室町時代で、上街道(上ツ道)沿いにあったと考えられることや、「道迎え」という南方からの客人を歓迎する祝宴が催されていたことから、当時は、おそらく興福寺の迎賓館のような役割も担っていたと思います。
室町時代中期から戦国時代に活躍した興福寺の僧で、興福寺大乗院第20代門跡であった尋尊(じんそん)は、福寺をよく訪れており、尋尊が記した『大乗院寺社雑事記(だいじょういんじしゃぞうじき)』には、南方から高僧らが訪れて、福寺で酒盛りをしながら、上街道を行く行列を眺めたことなどが残っています。
南方から訪れてきた貴人や客人をもてなす迎賓館的な役割から、福寺は、まさに「南玄関」という性格を体現した寺だと思います。他にも、境界地帯にある寺だったので、室町時代に福寺付近で、土一揆や合戦が多発していたため、軍事的な防衛拠点としても利用されていました。
当時の興福寺の高僧たちは、貴族出身ですから、ここ(京終)より南は、自分達が暮らす北側の町(都市区域)とは異なり、野蛮な田舎で魑魅魍魎(ちみもうりょう)が跋扈(ばっこ)する恐ろしい世界として感じていたに違いありません。そのためか、福寺辺りに100~200の「神火」(火の玉のようなものか)が出現したという怪異の記録も残っているんですよ。
往時の京終界隈で、かなりの権勢を誇っていた福寺の威光を感じる痕跡が石碑や石造物として残っていますので、観に行ってみましょう。
- 服部さん
- JR京終駅を南に行くと、「福寺の跡」の石碑が建っており、この石碑前の十字路から南東方向に広がっていたのが、福寺池です。旧福寺池の南東隅には、池底から出土したと伝わる石仏や石塔が集められて今もまつられています。この場所から上街道(上ツ道)が見えるので、福寺が本当にここにあったのだと実感が湧いてきますね。

|福寺跡(石碑)|
服部さん、教えて⑥
「椚神社」地域のアイデンティティの神木に注目、中世の奈良町の南惣門はおそらくここに
- 服部さん
- 長谷寺や伊勢へと通じる上街道(上ツ道)の路上に出っ張り、ひと際目立った存在感を放つ神木と祠は、椚神社(くぬぎじんじゃ)です。創建について、伝説によると、この神木は、春日明神が奈良に来た時にここで休み、出発時に挿し置いていった杖が芽を出したものとも、弘法大師の杖そのものとも伝わっています。
ここは、肘塚町(かいのづかちょう)と椚町(くぬぎちょう)の境界の辻の一角にあたり、
おそらく中世の奈良町の南の惣門(そうもん)があった場所だと思います。内側が貝塚郷(現在の肘塚町)で、外側が都市の外になります。 
- 服部さん
- 奈良町の南の惣門があった場所ですから、その意味もあって、一般的なクヌギ(櫟)とは違って、名称の漢字も木へんに門ですよね。例えば、室町時代に近郊で土一揆を起こした民衆は、都市を目指し、上街道を通って、この惣門を打ち破って焼き討ちをしたんですよ。当時から神木があり、室町時代の記録では、「神木」に「クノキ」とルビが残っていることから、この椚(くぬぎ)に繋がったのではないかなと思います。

- 服部さん
- 当時、貝塚郷(肘塚町)の人々は、この神木を守る役割があったため、税金や課役が免除される特権を持っていましたが、そこへ管轄元であった興福寺が税金をかけようとしたことがありました。怒った貝塚郷の人々は、「先例と違う」と訴えを起こし、無事に課税が回避されたといいます。ですから、貝塚(肘塚)の人々にとっては、この椚神社の神木は地域のアイデンティティの源泉と言える存在なんですね。

- 服部さん
- 『奈良坊目拙解(ならぼうもくせっかい)』※によると、江戸時代には、このクヌギの大樹は、奈良町の南惣門の傍らにありました。この石の祠は、1830(文政13)年に造られており、この年は、数百万の民衆が短期間に集団で伊勢神宮へ参拝しに行った「おかげまいり」の年に当たります。おかげまいりの参拝者からお賽銭が多く集まったから、この祠が作られたのかもしれませんね。
地域のアイデンティティとも言える神木ですが、1931(昭和6)年5月、風も無い日に突如として倒れてしまったため、当時の町内会長さん達により、苗木が植えられ育ったものが現在の3代目の神木です。樹齢は約100年で、今も地元の人々が大切に守り続けています。 
【もっと楽しむための歴史知識】
奈良坊目拙解(ならぼうもくせっかい)
江戸時代中期頃に村井勝九郎(無名園古道)によって漢文体で書かれた奈良の地誌(全15巻)です。南都七郷にはじまる各町の町名由来や寺社堂塔の由緒、古伝承・現況など約200種の古典書目から引用し、現地を訪れ、古老の説話を採取した内容です。
|椚神社|
何気なく歩いている道にも深い歴史が…
上ツ道 京終の特色を形作ってきた古代からの幹線道路を歩こう
- 服部さん
- 古代の奈良盆地には、東側から「上ツ道(かみつみち)」「中ツ道(なかつみち)」「下ツ道(しもつみち)」と呼ばれる直線の縦貫道である官道が南北にほぼ等間隔で縦断していました。この中で「上ツ道」は、その後、名称等を変えつつも、京終を含む奈良町南部エリアの歴史的な地域の特色を形作ってきた重要な存在と言えます。


- 服部さん
- この古代の官道である「上ツ道」の性格を引き継ぎ、江戸時代に「上街道」と呼ばれた道は、長谷寺(奈良県桜井市)への観音参詣である長谷詣(はせもうで)や伊勢参りのために、多くの人々が往来しました。南部の長谷寺や伊勢から、上街道を真っ直ぐ北上すると、たどり着くのが都市の玄関口である京終だったのです。ここを越えて、さらに真っ直ぐに進むと元興寺の南門がありました。鎌倉時代には、元興寺と長谷寺をセットで参詣する観音信仰が盛んだったようです。

- 服部さん
- おもしろいことに、この古代からの主要幹線道路である上ツ道の性格や機能は、現在、隣を電車が走っている、1898(明治31)年に開業した奈良鉄道(現在のJR万葉まほろば線)が引き継いでいます。

- 服部さん
- 奈良全体の歴史的には、「中街道」といえば、古代官道で一番西側の「下ツ道」、すなわち橿原市を経て五條市に至る街道のことを指します。しかし、JRの「中街道踏切」からも分かるように、この辺りの地元の人々は、実際の「中街道」より東側にある大和郡山市へ通じる道を「中街道」と呼んでいたようです。もう一つの「中街道」が存在したんですね。
肘塚に繋がる上街道(上ツ道)だけでなく、江戸時代の資料を見ると、このもう一つの「中街道」も主要な道だったようで、かつて、京終地蔵院の阿弥陀三尊像が元あった所も、もう一つの「中街道」の玄関口といえる場所でした。 
ロウノ坂
- 服部さん
- 中世、上街道(上ツ道)が奈良の町へと入ってくる玄関口にあたる場所が椚神社のある貝塚口(かいのづかぐち)です。当時は、現在の「肘塚(かいのづか)」ではなく「貝塚」「甲斐塚」などと表されていました。貝塚からさらに北へ進むと交差点があり、交わった横の道が古代の五条大路です。室町時代の絵図を見ると、五条大路は、「ロウノ坂」と呼ばれていたことが記されています。この「ロウノ」の名称の由来は不明で、江戸時代頃には、もう分からなくなっていたようですが、現在も京終と肘塚、中辻を東西に結ぶ道として現役です。

鹿垣跡
- 服部さん
- 京終エリアの細い脇道を歩いていると、急に不自然な形で曲がった道に出くわすことがあります。これは、かつて、鹿の侵入を防ぐ、鹿垣(ししがき)※があったところです。ここが都市と農村の境界でした。
※鹿除けの柵のこと 
服部さん ありがとうございました!
- 服部さん
- 何気なく歩いた道でさえ、古代からの主要な街道だったことが実感できたと思います。その街道が都市部へと入る玄関口であり、境界地が京終です。境界を守る御霊や石仏のお社、お堂もありましたね。ぜひ、都市と農村の境界である端っこエリアのユニークな歴史を古代からの道を歩きながら、今回のガイドを参考に巡ってみてください。

案内してくれた人
元興寺文化財研究所主幹研究員。専門は日本中世史。 2016年、元興寺文化財研究所総合文化財センターの開所を記念して、地元京終周辺地域の歴史文化を紹介する企画展を担当。その後、地元の方々と調査・研究を重ね、共同で『ならまちの南玄関―歴史と文化の扉をひらく―』(京阪奈情報教育出版、2021年)を制作した。
(撮影:都甲ユウタ テキスト:いずみゆか)
※掲載の情報は2026年8月時点のものです。詳細は各施設・店舗にお問い合わせください
※写真はすべてイメージです
この記事で紹介している神社仏閣やスポットの地図
- 京終地蔵院
- 飛鳥神社
- 璉珹寺
- 崇道天皇社
- 福寺跡(石碑)
- 椚神社
- 中街道踏切
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