不退寺 僧侶/藤木津賢さん・執事長/藤木惠永さん インタビュー
母と子で守る不退寺
2024年5月、長年にわたり不退寺(真言律宗)を守り続けた松村圭淳(まつむら・けいじゅん)住職が92歳で亡くなられました。もともとは、藤木津賢(しんけん)さんの伯父(松村住職のご子息)の副住職が、その跡を継ぐ予定だったのですが、松村住職よりも先に亡くなられたため、先代の孫である津賢さんが継ぐことになりました。
幼い頃から、境内を庭のようにして遊び、親しんでいたものの、自身が受け継ぐことになるとは思っていなかったそう。平安時代から続くお寺を受け継いでいくことについて、現在、住職になるため修業中の津賢さんと不退寺の執事長として支える母の惠永(けいえい)さんに決意した経緯と率直な今の気持ちをうかがいました。
理由は「この場所が好きだから」
津賢さん
もともとは、理系の道を志しており、大阪工業大学工学部応用化学科で学んでいました。「もしかしたら、このお寺を継ぐことになるかもしれない」との思いが生まれたのは、僕が高校生の頃、「おじちゃん」と慕っていた副住職の伯父が早くに亡くなってからです。しかし、当時すぐに「継ぐ」と決心した訳ではありませんでした。僕は、完璧に理系でしたので、お経や仏教についてあまり詳しくなかったからです。
今後の将来について考えた時、理系への思いもあったのですが、一度しっかり仏教を学んでみようと、大阪工業大学を卒業後、真言密教を中心とした仏教学が学べる種智院大学(しゅちいんだいがく)に編入して学びました。すでに得度(とくど)※も終え、現在(2025年8月)は、住職としてこのお寺を継ぐため、修行中の身です。
※得度…仏教において、仏門に入り僧侶となるための儀式
惠永さん
私は31年前に嫁いでお寺を出ましたが、嫁いだ後も毎日お寺の仕事をしたり、この子(津賢さん)を背負って手伝ったりしていました。そうして過ごすうちに、不退寺を守ってきた母や兄も亡くなってしまい、そのまま私がこのお寺の手伝いを続けることになった経緯があります。このような形でずっとご縁があったことに、不思議な仏縁で導かれているのではと感じており、受け継いで守っていきたいと思っています。
津賢さん
「継ぐ」と決心をしたのは、小さい頃から母と一緒に来ていたこの場所が好きだったからです。副住職だったおじちゃんの影響が大きく、おじちゃんと遊んだり、スコップと小さなバケツを持って、ずっと境内の花の手入れ作業を手伝ったりしていました。
惠永さん
津賢が幼稚園の頃、参拝に来られたお客様に「こちらへどうぞ」と境内で案内をしていた姿を覚えています。種智院大学へ通っている時も、本当に継ぐ覚悟がないのなら早く言ってと何度も伝えました。でも、一度も「いや」とは言わなかったです。そんな中、強く覚えていることがひとつあります。兄が亡くなった時、高校生の津賢が「自分がする(継ぐ)しかないだろう」と言ったのです。高校卒業後、好きな理系の大学で学んではいましたが、今思えば、すでに高校生の頃には、継ぐことを心のどこかで決心していたのかもしれません。
花の寺として、受け継いできた庭と今あるものを大事にしていこう
惠永さん
大正の頃、荒れ寺だったこの寺を先々代の祖父(松村龍祥師)が復興し、自分で漢方薬をつくるため、さらに参拝の方に楽しんでもらうために、庭にレンギョウやビナンカズラ、ナンテンなどを植えていったことで、いつ頃からか、“花の寺”と呼ばれるようになったそうです。そのため、父や兄は、祖父が植えてきた花や庭木をとても大事にしてきました。特にレンギョウの寺で知られるようになったので、挿し木をして増やしました。現在では、境内に2,000本くらいあります。父は、90歳になるまで庭木の剪定や手入れといった大変な作業をたった1人でやっていたのです。
その姿を見て育った兄も庭を大切にしました。もともと「業平椿」の存在から「椿寺」と呼ばれていた時代もあったと知った兄は、本当に一生懸命ツバキを育て、「日本ツバキ協会」に入会して種類を増やしたので、現在200種以上あります。他にも、スイレンを育てることに情熱を注ぎ、最初は10株しかありませんでしたが、いつの間にか40株になっています。
私も津賢も兄や父が一生懸命やってきた姿を見ていますから、なるべく兄がやっていたことを守って、絶やしたらダメだと思っています。“花の寺”は、未来にもずっと続いてほしいと思います。
津賢さん
おじちゃんと一緒にスイレンの植え替えを手伝った思い出があります。そもそも小学生の頃に園芸委員をやっていたくらい、僕自身も小さい頃から花が好きです。一度、テレビで観た花を新たに植えてみようと思ったこともあったのですが、何分、庭の植物の数があまりにも多いので、止めることにしました。正直、種類が分からないものもあるくらいです。ツバキやスイレンだけでなく、どの植物も育て方や手入れの仕方が違う難しさがあるので、まずは、絶やさないようにがんばっていこう、今あるものを大事にしていこうと思っています。
あえて何も教えず、見て覚える
惠永さん
平安時代の大事な重要文化財ですから防火や防犯は口を酸っぱくして、津賢に伝えています。祖父(先々代)は、父(先代)にお寺のことをあえて何も教えず、実際に見て覚えるスタイルで伝えました。そのため、先代も津賢に対して同じように接してきました。晩年は檀家さんの法要で導師を務めた時にはお付きをさせて、法要のやり方を全部見せ覚えさせました。亡くなるまでの最後の数年間、お寺に住み込んで先代と共に暮らしたことで、津賢は多くのことを学んだように思います。
津賢さん
実際に見て覚えることも多かったのですが、僕から何か話しかけて聞くことは、ほとんどありませんでした。先代は、高齢で耳が遠かったこともあって、自分からしゃべりかけてくることが多く、亡くなる1年前から、自分が亡くなった後に困らないよう、掛軸の掛け方や仏具の並べ方などを「こうやってやるんや」と教えてくれる機会が多かったです。最後の方には、「他に聞くことはあるか?」とちゃんと聞いてくれましたね。あの最後の1年があって本当に良かったです。
惠永さん
先代は、自分の老い先が短いと分かっていたのでしょう。津賢に引き継ぐべきことをしっかり伝えてくれました。当初、津賢の住職になるための修行先が見つからず難儀しましたが、修業先のお寺が決まったことを知ってから、ホッと安心して人生をまっとうしたと思います。現在、正式な住職になるまでの間、同じ宗派でご近所の海龍王寺さん(石川重元住職)がこのお寺の代務住職を引き受けてくださっています。ありがたいことに、他の寺院の方々もご助力してくださっていることに感謝しております。
会ったことが無い人も継ぐことを喜んでくれる
津賢さん
歴史あるお寺を継いでいくことは、先代が偉大というのもあって、完全にプレッシャーしかありません。先代は、訪れた人になるべくポジティブな声掛けをしていました。本堂には、参拝者と話しをするために座っていた先代の椅子があり、今もそこに居るような気がしています。先代に会いに来られた参拝者の方に僕が継ぐことを伝えると、まったく面識が無くても喜んでくれる方は本当に多いです。
惠永さん
今まで父母兄が居て、いつも誰かが上に居ました。みな亡くなってしまったことで、本堂やご本尊の観音様など、このお寺にある多くの重要文化財を大切に守っていかなければと重く感じています。嫁いだら出ていくと思っていましたが、ずっとここに居付いてしまった感じになりました。幼い頃から、本堂の観音様や五大明王様は、家族みたいな存在です。修理で外へ行かれた時は、「大丈夫かな」「さみしいな」と思いましたし、重責はありますが、親しみのある仏さんです。一度しかない人生、観音様のそばに居られて良かったなと感じます。
臨時で特任住職を兼務する海龍王寺・石川住職からのメッセージ
(撮影:都甲ユウタ テキスト:いずみゆか)
※掲載の情報は2025年8月時点のものです。詳細は各施設にお問い合わせください ※写真はすべてイメージです
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スポット情報
住所- 〒630-8113 奈良県奈良市法蓮町517
- お問い合わせ
- 080-8943-1201(不退寺)
- 時間
- 9:00~17:00(受付は16:50頃まで)
- アクセス
- JR奈良駅、近鉄奈良駅から 航空自衛隊行または西大寺駅行きバス「一条高校前(不退寺口)」下車、北へ徒歩5分。
または近鉄新大宮駅より北へ徒歩約15分。
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